昔(1970年代頃)、「日本の教育は能力の開発ではなく選抜重視だ。」とOECDから指摘されたらしいのですが、その傾向は未だ変わっていないようです。

と申しますのも、最近、勝ち組(単に経済的に成功した人々なんですが)の人々から「子どもの能力に応じた教育を!」と言うことが声高に叫ばれるようになりましたが、これは現在の出来ない子に合わせる悪しき平等ではなく、出来る子どもはより出来るようにしてほしいと言う意味のようです。
まさしく選抜の思想ですね。
蛇足ですが、現在の教育は出来ない子ではなく、
(実態が良くわからない)平均的な子どもを対象にしているのですが・・・


さて、私は昨年末に特別支援教育の現場を訪れる機会を得ました。
そこで学ぶ子ども達や教える先生方の姿を見て、
「能力に応じた教育」とは
ある時点に獲得したテストの結果に基づく学力に応じた教育ではなく
個々の人間が生来的に持つ遺伝的・生物学的能力を中心に
地域や家庭などの生育環境に応じた教育

ではないかと思いました。

特別支援教育に通うこども達のみならず
アンダーアチーバー(学力未達児)とされる子ども達は
器質的な障がいだったり、
虐待などの反応性愛着障がいだったり、
経済的事情だったり、
様々な社会的不利を抱えています。
この社会的不利が知力・体力・コミュニケーション能力の獲得に影響を与え、
結果的にアンダーアチーバー(学力未達児)になっているようです。
仮に「能力に応じた教育」を勝ち組の期待する内容だとしても
まずは個々の子どもたちが持つ社会的不利を解消することが前提でしょう。

社会的不利の解消とは具体的に
社会生活を円滑に過ごす上で必要となる最低限の規範を遂行する能力を獲得するために必要なサポートを提供すること
と定義したいと思います。
社会生活を円滑に過ごす上で必要となる最低限の規範を遂行する能力ですので、生涯にわたって適切なサポートを提供し続けることも含むことになります。
従って、社会的不利の解消には教育的サポートだけでなく、
医療的サポートや福祉的サポート等が必要になりますので、
まさしく社会総掛かりの取り組みが必要です。

蛇足ですが、このような個人の責任ではない社会的不利な状況さえも
自己責任とされるような風潮ではありますが・・・


個々人が持つ能力を学力(=テストの点数)と狭義に定義しても
社会的不利を可能な限り解消、または解消し続けようとする活動がベースにあれば、勝ち組の期待するような「能力に応じた教育」でも構わないように思えます。

でも、能力って学力だけで定義して良いのでしょうか?
学力を勝ち組が期待するような最終的に経済的に成功する能力と定義してもです。
そもそもどんな能力が経済的成功をもたらすかどうかは誰にもわからないので、教育の現場が判断することはできません。
仮に判断できたとしても市場が飽和状態になり、
すぐに儲けることができなくなるでしょう。
教育の役割とは個々人が持つユニークな能力を開発することによって
社会の多様性を確保することだと考えます。
そのためには、可能な限り経済的格差を無くし、
現時点では経済的な成功を得ることが難しい能力であっても
個々の多様性を確保するために必要な社会的保障は必要です。

但し、全ての人が、社会的な支援を得ながらであっても
社会生活を円滑に過ごす上で必要となる最低限の規範を遂行する能力を獲得し、その上で個々人が持つユニークな能力を最大限発揮していることが前提です。


最後に私の好きな昔話を紹介します。
これからの経済発展を願うのであれば、尚更
三ねんねたろうを養う懐の深さが必要ですね。

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